西東三鬼(津山市) 新興俳句の旗手
成道寺の墓地にある西東三鬼の墓。初期の代表作〈 水 枕 …〉の句が刻んである。
さいとう・さんき 1,900―62年。本名・斎藤敬直。15年津山中学入学。
18年長兄に引き取られ東京・青山学院中学部に編入。
日本歯科医専に進んで25年卒業、結婚しシンガポールで開業。
3年で帰国し、勤務医時代の33年同僚医師や患者に勧められて俳句にかかわり、西東三鬼の筆名を使う。
翌年俳句同人誌に加盟、作句するうち新興俳句に共鳴、没頭し俳友との交流も深め「京大俳句」に加入。
名声も高まる中38年、歯科医廃業。40年、「京大俳句」弾圧事件に連座、取り調べを受ける。42年妻子を捨て神戸に移り住む。
戦後句作を再開、48年「天狼」創刊、「激浪」も刊行し、こちらは津山に発行所を置く。
俳壇での地位を確立していき、52年新主宰誌「断崖」創刊。
56年角川書店の「俳句」編集長に就任して上京、すぐに辞し専門俳人の道を歩みつつ、62年胃がんのため逝去。享年62。
奇をてらうなどということがあまりない墓地にあって、異彩を放つ墓石である。句が刻んである。
〈 水 枕 がばりと寒い 海がある 〉
自ら俳句開眼作と呼ぶ、西東三鬼初期を代表する一作だ。一作は今、作者の悠久の眠りを慰める句碑となった。
「西東三鬼之墓」の文字と並んで、一枚石に刻まれている。
墓は三鬼生誕地にほど近い津山市西寺町、成道寺の、両親が眠るそばにある。
同市に生まれ育った三鬼は、東京に学び歯科医となるが、30を過ぎて俳句に目覚めた。戦争へと突き進む暗い時代に、
あたかも抗するかのようにうねりを上げた新興俳句の波に乗って頭角を現し、瞬く間にスターダムへとのし上がって
いったのだった。
権威ある俳句賞に定着
桜の名所で知られる津山市のシンボル鶴山公園。津山城跡であるこの一角に西東三鬼の句碑がある。
〈花冷えの城の石崖手で叩く〉
市内の文化団体でつくる津山市文化協会が、城跡周辺に句・歌碑を巡らしての「文学の散歩道」を企画し、
1,978年11月3日の文化の日に、その第1号としてこの隣に真新しいもう一つの句碑が並んでいる。
〈佐保姫に会ふ靴をおく花の下〉
今年9月1日に、市文化協会創立60周年記念事業として、作者の功績を顕彰して建立されたばかりだ。
作者は、白石不舎(ふしゃ)。三鬼の門下で、本名が哲(さとし)。今年2月末、87歳で急逝した。
本名の哲の字から「てっつぁん」の愛称で親しまれた。津山の地で俳句結社「綱(つな)」を主宰し、俳句教室を開いて、
その振興に努めた。市の文化功労表彰も受けたがそのとき、併せて評価されたのが三鬼の顕彰活動だった。
この人なかりせば、津山における三鬼の今の名声はなかっただろう。
元市職員。戦後すぐ三鬼の門下に入り、三鬼を津山に呼んでの句会を催すなどしていたが、三鬼没後にいったん上京、
帰郷してから三鬼顕彰に力を入れだした。
同市西寺町の成道寺に句碑付きの墓を建立したのもそうだが、最も評価されるのが「西東三鬼賞」の創設だろう。
92年の三鬼没後30年を記念しての顕彰全国俳句大会を市に働きかけ、実現した。
全国公募したところ、山口誓子、金子兜太ら超一流審査陣を擁したこともあって、1,235人から3,688句が寄せられた。
これが翌年の「西東三鬼賞」創設につながり、今年で19回を数える。大賞には50万円が贈られ、権威ある俳句文芸賞に
成長した。
賞は市教委文化課に事務局を置く委員会が運営、白石さんは当初より副委員長として主導的に関わってきた。
生誕地
三鬼は、同市南新座に生まれた。生誕地に句碑が立っている。
〈枯蓮のうごく時来てみなうごく〉
代表作の一つとされるもので、没後30年の顕彰全国俳句大会当日の4月5日、市文化協会によって建立されたものだ。
幼くして父を亡くした三鬼は、津山中学(津山高校の前身)に学ぶも、18歳で2人暮らしの母も病死、東京で働いていた
20歳近く離れた長兄に引き取られ、上級校に学んで歯科医の資格を得た。
東京の病院で働いていた33歳のときたまたま俳句に出合い、運命が変わった。折しも新興俳句の勃興期だ。
それは満州事変、五・一五事件などを経て、戦争の時代へと突き進むのと時を同じくして起きた俳句の革新運動で、
季語にとらわれないなど正岡子規から高浜虚子につながる伝統俳句に異を唱えていた。
もとより伝統俳句に素人の三鬼は、抵抗なく新興俳句に入っていった。言葉を操る才にたけていたから瞬く間に頭角を現した。
俳句と出合ってわずか2年、記念碑となる開眼句〈 水 枕 がばりと寒い海がある〉を生みだし、新興俳句界の寵児と
なっていった。
しかし40年、参加していた「京大俳句」の言論弾圧事件に連座、治安維持法違反容疑で勾留の憂き目を見た。
起訴猶予処分にはなったものの、戦中は作句を慎まざるを得なかった。
有季定型
戦後は一転、季語を重視した「有季定型」へと変身した。
47年には今につながる現代俳句協会設立の中心人物となる一方で翌年、山口誓子を担いで「天狼」を創刊、俳壇の中心勢力と
なった。
この変わり身を「策士」「寝業師」と批判する向きもあった。
「機を見るに敏な人」三鬼に一度会ったこともある岡山県俳人会の竹本健司会長(79)は、そんな印象を漏らしながら、
その功績をこう評価する。
「〈 水 枕 …〉などは、画期的なもので、俳句を詩のレベルまで高めた。
寒い海は、外の景色であると同時に作者の心象風景。
隠喩を取り込んでおり、新興俳句の人々が努力してもできなかった世界です」
次に、山陽新聞1面に載った「西東三鬼」の記事の切り抜きを掲載します。
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